長谷川一幸物語 ( その 2 )

●体格は無関係 極真黎明期の思い出

 「当時は凄まじく個性的な先輩たちがたくさんいましたね。『始め』の声でいきなり仰向けに大の字になって『かかってこいよ』といったり、足を巧みにひっかけて上に乗り、顔の横をドーンって正拳で叩いたり…。今でいうとグレイシー柔術みたいなことをやる先輩もいました」。そんな先輩たちだが、結束カは強かった。「当時は組手でも顔面にバチバチ当ててました。組手で先輩に勝つと大変なんですよ。ひとりの先輩が『長谷川、まいった』というと、横に並んでいる黒帯の先輩たちが、『あいつの敵や』って、そのあとの 6〜7 人に総なめになっちやうんですね。だから、先輩を叩いておいて『スイマセン、スイマセン』て謝らなくちゃいけない」。今でこそ笑顔で当時の思い出を語る長谷川だが負けん気の強い長谷川のこと、様々な苦労もしたことだろう。

だが、その一方で、当時は直接指導にあたっていた大山総裁に柔道の袈裟固めをかけたなどという、楽しいエピソードも語ってくれた。「総裁に『好きなように押え込んでみなさい』といわれて思いっきり袈裟固めをかけたんですが、外されてしまいました」。それもそのはず、大山総裁は柔道でも曽根幸蔵門下として修業に励み、四段の実力を持っていたのだ。

 この当時の長谷川に大きな影響を与えたのが、のちにキックボクサー「大沢昇」としてプロで活躍した藤平昭雄だ。身長 155cm と、長谷川よりさらに小柄な藤平は、組手で巨漢の外国人選手を圧倒する。体躯を補って余りある、超人的な稽古の為せる業であった。このような先輩がいたからこそ、『体が小さいから』という言い訳は成り立つわけもなく、長谷川も稽古に精進したのだ。その甲斐あって、長谷川は入門から 2 年半後の 69 年 9 月に行われた「第一回全日本空手道選手権大会」で 3 位に入賞する。当時の全日本は、つかみや投げもありのルールだったことも幸いした。「柔道の経験が役にたった」。

 当時の長谷川のトレーニングは大型選手に対抗するために基礎体力をつけることに力を注いだ。「ベンチプレスも重いものではなく、軽いもので数をこなすようにしました。30 キロのものを 100 回上げるのに何秒かかるかとか」。足の方はスクワットや、鉄下駄をはいての膝蹴りなどを中心にサンドバックを使ってのトレーニング。「体が小さいと、相手の技を盗み、弱点をつかないと勝てないですからね」という長谷川は、小柄というハンディを克服するために、大きめの道着を着る、腕の振りを大きくする、といった工夫も研究した。この当時に長谷川が作成したトレーニングマニュアルはノート 3 冊分にも及び、今でも長谷川の貴重な財産として指導に役立てられている。

●芦原先輩とともに故郷で正しい空手を

 全日本選手権で 3 位になった長谷川はその後、指導員として本部で後輩たちの指導に当たったが、自分の練習時間がうまく取れないことが悩みの種であった。そんなときに長谷川に声をかけてくれたのが、芦原英幸氏だった。「俺の持っている技術を全部教えるから四国に戻って来い」。その言葉を聞いた長谷川は、「親が病気」と偽って長期休暇を取って四国にもどり、芦原氏のもとで思う存分稽古に励んだ。そして 70 年 9 月に行われた「第二回全日本」で見事優勝を果たす。

 「できれば郷里で正しい空手を広めたい」と考えていた長谷川はその後、徳島に極真会館の道場を開く。長谷川にとっては世界を目指すよりも、兄のように慕っていた芦原氏と極真を広めるほうが魅力的だった。極真の強さを証明するために、道場に「道場破り歓迎」の看板を掲げ、また自らも他流派に道場破りに出かける日々だった。後に結婚することになるなほみさんとお付き合いしていた頃もなほみさんを車に乗せて待たせておき、「向こうの生徒が先に出できたら俺がやられているから救急車を呼んでくれ」といって道場破りに出向くこともあった。「殺るか殺れるか、その気迫が大事ですよね。自分は極真を広めるために、そのくらい体を張ってきたつもりですから」。

 実は長谷川は、愛妻のなほみさんについても大山総裁には頭があがらない。「実は総裁の秘書だったんです。ですから僕は、社内結婚の第 1 号だったんですょ。それで総裁には言えなくて……。『君は結婚式の当日まで私に言わなかったんだから』って後で総裁に言われましたけど、そんなの言えるわけないじゃないですか!」。結婚式の当日に、自分の愛弟子の結婚相手が自分の秘書と知ったゴットハンドの心境はどんなものだったのだろうか。

 また、長各川は選手にはタブーとされていた酒・タバコについても「自分は酒もタバコもやります。気晴らし程度で、人に迷惑をかけなければいいと思いますよ」という。空手を学ぶ者全員が選手になるわけではない、そこまで押えつける必要はないという。「空手を通して何をつかむかは人それぞれだと思います。選手になりたい者もいれば、友達がほしい者もいるでしょう。大事なのは、そういった精神的なものだと思いますよ」。

 精神が大事、という長谷川だが、それだけに人の道を外すような者には容赦しない。鉄拳制裁を加えることもある。「本部時代、他流派からきた道場生が『しゃらくせえ』ということをいってたんです。ほっといたら段々エスカレートしてきたので他の道場生の手前、体で納得させてやりました」。こんなこともあった。弟子が長谷川の管轄地域で新たな道場を構えたが、師である長谷川には一言のあいさつもなし。長谷川はその道場のバックにある地元の組がついていることを知ると、そこの組長を訪ね、『あなたたちにもメンツがあるように、私にも武道家としてのプライドがあります。私はあいつにけじめをつけますが、目をつぶっていただきたい』挨拶した。長谷川の筋の通った言い分に組長も納得し、長谷川はその弟子に「筋道をしめす」ことで、武道家としてのプライドを保った。

●目指すは中身も器も日本一の道場

 長谷川は若者にいう。「なんでもいいから好きになるものを持ちなさい。そして、トップになる要素は純粋さなんだ」と。格闘技が強いだけでは真の武道家とはいえない。心が伴わなければいけないという長谷川の考えは、自身のこれまでの様々な経験から出てきたことだ。

 そして指導者としての日々を過ごす現在は「人間的にも弟子が後をついていける空手家でありたい」と考えている。長谷川氏のライフワークともなっているのが、姓名判断だ。知人と共に徳島のある占術家を訪ねたところ、「長谷川さん、去年交通事故をやったでしょう」とずばりといわれたのがきっかけだ。長谷川は現在、日本で 2 人しかいないやり方の姓名判断を覚えた。

 その趣味をいかして、道場を訪ねて来る若い入門者にはいきなり空手の話はせず、おもしろく姓名判断などを行い、相手の気持ちをリラックスさせるようにしている。「僕が本部で修業していた頃、大山総裁から『やあ君頑張っているね』と声をかけられてものすごく励みになったのを覚ぇています。ですから僕も指導する時はできるだけ初心者に声をかけるようにしています」と語る長谷川。「今日を築いた極真の名を残すこと、空手界の王道をいくこと」を常に胸に刻み「日本一の道場、器だけでなく、中身も日本一にしたい」と目標を語る。78 年には愛知県支部長にもなった。現在は国際空手道連盟 極真会館 全日本極真連合会 世界極真連合長として後輩の育成にあたる長谷川の中には極真空手初期のサムライ・スピリットが脈々と息づいている。

引用-「月刊フルコンタクトKARATE3月号」

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