「小さな巨人」。身長 165cm という体躯で 70 年に行われた「第二回全日本空手道選手権大会」を制した長谷川一幸には、常にこの言葉がついて回る。長谷川がこの偉業を達成したのは、空手を習いたい一心で 19 歳の誕生日に極真の道場に飛び込んでからわずか 3 年後のことであった。
この大会には、当時天才の名を欲しいままにしていた前年度優勝者の山崎照朝 ( 現逆真館館長 )、「城西の虎」添野義二 ( 現士道館館長 )、佐藤勝昭 ( 現佐藤塾宗師 )など、そうそうたる面々が出場していたが、これらの強豪を撃破しての優勝だった。この時、長谷川の 165cm の体は、誰よりも大きく見えたことだろう。「体が小さいから、練習で自信をつけなければしょうがないですよ」。長谷川はあっさりというが、その苦労は並大抵ではなかったはずだ、「毎日 7〜8 時間は当たり前。多い時には 10 時間以上、朝から晩まで稽古に明け暮れてました」。「小さな巨人」を作り上げたのは、超人的な練習量にあった。
長谷川は徳島県の出身だが、長谷川の空手人生を語る時、同じ四国出身の先輩である故・芦原英幸氏を抜きに語ることはできない。長谷川も「今の自分があるのは芦原先輩のおかげ」といいきる。芦原氏といえば喧嘩空手でその名を馳せたが、長谷川も中学時代は喧嘩に明け暮れたくちだった。もともと「一昔前、天皇の前で時の政府批判をして憲兵に殺されかけた経歴を持つ」曾祖父の血を受け継いだ長谷川は負けん気が強く、何事も筋を通さねば気が済まない性格だったという。しかしそんな長谷川も、小学校のときはよくいじめられた。もともと小柄できゃしゃな長谷川はいじめっ子に目をつけられても不思議ではないタイプだが、「小さいくせに負けん気が強かった」のが、いじめられた理由というのは長谷川らしい。いじめっ子にしてみれば、いじめてもいじめても怯まずにはむかってくる長谷川は、やっかいな存在だったことだろう。
小学校を総代で卒業したことからもわかるに、小学校の時は勉強に集中したが、中学に入ると曾祖父から受け継いだ血の成せる業か、喧嘩に明け暮れる毎日だった。「ワルだった」と苦笑しながら当時を回想する長谷川だが、かなり危ない場面もあったようだ。「相手がばーんと殴ってきた時に、自分が受けて、相手の腹を探ったんですよ。そうしたらね、入っているんですよ、ドスが。こりゃあ本気だなと。そいつ、後で人を刺して少年院に入った奴ですからね」。一歩間違えれば自分が刺されていた可能性もあったわけだが、「道具を持って喧嘩する奴は弱いから、何かに頼りたくて道具を持つんでしょうね」と平然といいきる。『喧嘩であっても筋を通す』のが長谷川流の喧嘩だった。
高校時代は柔道に熱中した。本当は空手か拳法を習いたかったのだが、長谷川が入学した高校には柔道部しかなかった。「孤独な陸上や団体競技は苦手だったし、柔道だったら学校で天下を取れるから」が柔道部を選んだ理由。部活動と平行し一て、100 キロの米俵を担いだり、30 キロの塩袋を手カギに引っかけるなど、ハードな肉体労働をアルバイトでこなしていた長谷川は、この頃にみっちりと基礎体力を養うことができた。柔道の方も思惑通りにめきめきと頭角を現し、高一で初段、高二で二段と順調に段位を取得していく。「病気で学校を休んでも稽古には出る」ほどの熱心さでインターハイを目指した。だが、いよいよ迎えた県予選、団体戦で長谷川の運命を大きく変える出来事が起こった。相手に釣り込み技をかけた瞬間、倒れかけた相手の足が長谷川の腰を直撃した。これで筋肉を痛めてしまい、勝ち抜くことが難しくなった。
翌日に行われた個人戦では持ち前の気力と体力で何とか 2 回戦は突破したものの、3 回戦で判定で敗れてしまう。「柔道しかやってませんでしたから」という長谷川がかけていたインターハイという大舞台への出場の夢はこのときに断たれた。そしてもう一つ、空手家、長谷川一幸誕生へとつながったエピソードが、柔道の練習で、ある人に背負い役げを極められたことだった。背負い投げという小さな者が用いる技を、自分よりはるかに大きい人に極められたのがショックだった。「ぱっと持たれたら体が宙に浮いていた。この時に、自分の柔道人生に見切りをつけました」という長谷川はこれ以降、空手を志すようになる。長谷川の運命を決定づけた恩師とは、ヘーシンクを指導した人で、今でも親交があるという。
高校を卒業した長谷川は上京し、染料工場に就職する。この時も筋を通す長谷川は、何度か同僚と喧嘩をしたという。しかし相手を叩きのめし、自分の強さを誇示するのではなく、「なめたらあかんど!」という気持ちの現れであった。そしてこのときに酒豪としての資質も開花する。「入社して 8 日目に、飲み会があったんですが、ビールを 1 ダースくらい空けて、一升瓶も飲んだらしいんです。覚えていませんが。今でも普通の人より強いと思いますよ」。初めて飲んだときからこういう調子。この後は想像できる。
もともと空手をやりたくて上京した長谷川だが、どこに道場があるのかさえ知らなかった。勤め先の上司に相談に行くと「気違いに刃物だ」と一蹴される。ただでさえ喧嘩っ早く危険人物事視されていた長谷川が空手を習うなど、とんでもないと思ったのだろう。それでも何とか頼み込むと「確か池袋のほうに道場があったなあ」と教えてくれた。そうして出向いたのが極真会館の総本部だった。当時の長谷川は、「大山倍達総裁の名前すら知らなかった」状態。たまたま出向いたのが当時新築したばかりの極真会館だったことは、その後の長谷川の空手家としての運命を大きく左右するものだった。「とにかく指導員の言葉が丁寧で、礼儀正しい」と極真会館に好印象を持った長谷川は、それから 2 カ月後の昭和 42 年 8 月 28 日、極真の門をくぐる。長谷川一幸、19 歳の誕生日だった。
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